釣りに行けば、魚が釣れる。
もちろん、そんなことはない。
時間をかけて場所を調べて。
潮を見て、天気を見て、仕掛けを考えて。
前日の夜には道具を並べて、忘れ物がないか何度も確認する。
まだ暗いうちに家を出て、海まで車を走らせる。
そこまでしても、何も釣れない日はある。
小さなアタリが一度あっただけ。
あるいは、その一度すらない。
それでも不思議なことに。
しばらくすると、また海へ行きたくなる。
どうして僕は、こんなに釣りが好きなんだろう。
最近、そんなことを少し考えるようになった。
もちろん、魚は釣りたい
最初に言っておくと、釣れなくてもいいと思って海へ行っているわけではない。
できることなら釣りたい。
しかも、できれば大きいのを釣りたい。
今なら、いつか50cmを超えるキジハタを釣ってみたいと思っている。
潮を調べるのも、ポイントを探すのも、仕掛けを考えるのも、その一匹に近づきたいからだ。
だから釣れなければ普通に悔しい。
帰りの車で「あそこ、もう少し丁寧に通せばよかったな」と思うこともある。
釣果なんて関係ない。
そんな格好いいことを言えるほど、僕は悟ってはいない。
でも。
もし釣果だけが目的だったら、たぶん僕はここまで釣りを続けていない。
釣りは、海へ着く前から始まっている
釣りへ行くと決めた日から、少しずつ頭の中が海になる。
どこへ行こう。
何を狙おう。
潮はどうだろう。
PEは何号にする。
ワームにするか。
それとも、サバを付けてみるか。
仕事の休憩中に潮を見たり、夜になってから仕掛けを作ったり。
釣りをしていないのに、もう釣りをしている。
考えてみれば、ずいぶん長い遊びだと思う。
海にいる数時間だけじゃない。
行く前から始まって、家に帰って道具を洗うまで続いている。
もしかすると僕が好きなのは、その全部なのかもしれない。
海にいると、何もしない時間まで悪くない
釣りをしていると、意外と「何も起きていない時間」が長い。
投げる。
沈める。
ボトムを感じながら巻いてくる。
そして、また投げる。
魚からの反応はない。
そんな時間が何十分も続くことだってある。
普通なら退屈になりそうなものだけど、海にいると不思議とそうでもない。
潮の流れが少し変わった気がする。
さっきより風が弱くなった。
遠くで鳥が海へ突っ込んだ。
足元を覗けば、小さな魚が泳いでいる。
釣れていないのに、何となく海を見ていられる。
そして、ときどき。
何十回も同じように投げていた仕掛けに、突然「コン」と生命感が伝わってくる。
それまで何もなかった時間が、その一瞬で全部つながったような気がする。
たぶん僕は、その瞬間を待っている時間まで含めて好きなんだと思う。

誰かと行く釣りには、魚とは別のものが残る
一人で海へ行くのも好きだ。
自分の好きな場所へ行って、自分のペースで投げ続ける。
気になる場所があれば移動して、もう少しやりたければ残る。
それはそれで、とても贅沢な時間だと思う。
でも、誰かと行く釣りは少し違う。
自分なら気にしない足場でも、初めての人と一緒なら別の場所を選ぶ。
自分なら朝まで投げ続けるところを、「そろそろ帰ろうか」と竿を置くこともある。
釣りたい魚より、一緒にいる人が楽しめる魚を考える日もある。
一人ならしなかった選択が増える。
でも、その不自由さみたいなものが、後から振り返ると案外いい。
「あの魚、大きかったな」と話したり。
帰りに何かを食べたり。
釣れなかったことまで、いつの間にか笑い話になったりする。
魚のサイズや数は忘れても、その日に誰と海へ行ったかは、案外ずっと覚えている。
釣りを理由に、誰かと一日を過ごす。
それも僕が釣りから持って帰っているものの一つなんだと思う。
釣れなかった日は、失敗なんだろうか
釣果だけを見れば、釣れなかった日は失敗なのかもしれない。
狙った魚が釣れなかった。
仕掛けをいくつも失った。
朝早く起きたのに、何も持って帰れなかった。
そんな日は普通にある。
僕だって、その瞬間は悔しい。
でも少し時間が経つと、その日のことを思い出している。
あの根の向こう側。
あの一度だけ出たアタリ。
急に潮が動き始めた時間。
帰る直前に見つけた場所。
「次はこうしてみよう」が一つでも残れば、釣れなかった一日は次の釣りにつながっていく。
そう考えると、釣りには本当の意味での「何もなかった日」は、案外少ないのかもしれない。
大きな一匹を釣った日も、結局は同じだった
先日、真鶴のボートロックフィッシュで45cm級のキジハタを釣った。
僕にとっては、かなり嬉しい一匹だった。
目標にしている50cmまで、あと5cm。
普通なら、しばらくその余韻に浸っていても良さそうなものだ。
でも帰る頃には、もう次のことを考えていた。
次はどこへ行こう。
次は何を投げよう。
50cmは、どこにいるんだろう。
結局、釣れた日も釣れなかった日も、最後は同じなのかもしれない。
また海へ行きたくなる。
帰り道までが、僕にとっての釣りなのかもしれない
釣りを終えて、道具を車に積む。
手には少し潮の匂いが残っている。
疲れている。
眠い。
釣れなかった日は、ちょっと悔しい。
釣れた日は、何度も魚の写真を見返したくなる。
でも車を走らせながら考えていることは、だいたい同じだ。
あの場所、もう一回行きたいな。
次はあの仕掛けを試そう。
今度は誰を誘おう。
釣りが終わったばかりなのに、次の釣りが少しずつ始まっている。
僕がこのブログに「海の帰り道」という名前を付けた理由も、たぶんその辺りにある。
釣れた日も、釣れなかった日も。
大きな魚を釣った日は、もちろん忘れない。
でも人生の中に残っていく釣りの日は、それだけじゃないんだと思う。
一人で黙々と投げ続けた日。
誰かと一緒に海で笑った日。
何時間も投げ続けて、結局何も持ち帰れなかった日。
そして、45cmのキジハタを抱えて帰った日。
どれも同じように、僕の釣りだ。
だからこれからも、たぶん僕は海へ行く。
魚を釣るために。
そして、ときどき魚とは違う何かを持って帰るために。
釣れた日も、釣れなかった日も。
その帰り道まで、ここに残していこうと思う。

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